そもそも、人体の気血があるという事は、まるで天地に潮汐があるに等しい。ゆえに、人の気血は潮の進退(≒差し引き)に応じて盈虚(えいきょ、=満ち欠け)がある。つまり、潮が差し盈(みち)る時は、人の気血もまた盈る。よって、その時に観れば血色は自然と浮かび現れ、知りやすい。また、観相者も己の身体の気血が以上の如く充満(みちみち)る時に観相に臨めば、心気が健全ゆえに、自然と観やすい。潮が退(しりぞ)く時は、心気は陰に入り、気血もまた沈み退いて知り難くなる。観相者も以上の如く、心神が陰に入る時に観相しようとすれば心が進まぬゆえに、観定め難い。気血が衰え常に血色が悪い人であっても、天地の潮が差し盈る時は、血色も自然と浮かび現れやすく、好ましく観えるものである。常に血色が好ましく観える人であっても、以上に準じて判断しなさい。だが、太陰の人においては、引き潮(=退潮)の時には血色が良くなり、満ち潮(=進潮、差し潮)の時には血色衰える。
*血色は陰であり、満潮に観難く引潮に観易い。逆に気色は陽であり、満潮に観易く引潮に観難い。
*満月と新月の周辺で産まれる子供は、それと同時期の月齢に受精した事になる。バイオタイド理論で考えると、満月、新月あたりは人間の心身状態が不安定になるので、受精目的の性交は避けるのが賢明である。産まれ来る子供の心身に何らかの異常が出る可能性が高い。古人は経験則に基づいて「大酒飲んだ後に子作りするな」とか「雷の鳴る夜に子作りするな」などという戒めとしての格言を残しているが、内的(精神的)要因も、外的(環境)要因も、受精状態に大きく影響を与える事は間違いない。月の引力は海や海に生息する生物だけに及んでいると思われがちであるが、満潮時に地表が数十センチほど盛り上がる事を鑑みれば、地表上に生きる生物に何ら影響がないと結論付けるのは早計かつ愚である。ちなみに野口晴哉は『育児の本(全生社)』の冒頭で、「意識以前にあるその子の力を育てる急処が胎児の時期である。産まれてからでは遅いというのである。」と述べている。
↑図1
↑図2
前談の如く、官禄の官は天帝(=額)の中央に位置し、君主とする。よって、万事の吉凶は全てこの部位に現れる。これはつまり、世の清濁はその君主の徳不徳にあるに等しい。ゆえに、官禄の血色が濁る時は、その君主からの徳沢(とくたく、≒恩恵)がなく、国家を光潤させる事が出来ないため、万事が安定し難いと言う。
人の身体は土気を受けて育つ。ゆえに、己の身体そのものが土気で満ちている。また、黄色は中央であり、土の色である。よって、親族に死亡する者がある時は、己の身体の土気同気が相感応し、自然と衰え、潤いのない黄色を現わすようになる。本来、黄色は悦びの色であるとは言うが、人に盛衰があるように色にも清濁がある。ゆえに、一概に言ってはならない。すでに己に良い事が訪れている時は、その身体の土気は潤いを得て、その黄色もまた潤いを現わす。これはつまり、己の身体の土気が栄えるがためである。
↑図3
この赤筋は血の色であり、災いの色である。さらに、この赤筋は肉を裂き、鑚入(くいい)るように現れる。それはまるで、災いの色によって全身の肉を傷つけるに等しいゆえ、剣難がある、と言うのである。また、剣難がある時は、日月の官の血色が衰える。これはつまり、己の身体髪膚(しんたいはっぷ、≒全身)は父母、先祖から受けたものであり、我が身を傷つける事は父母、先祖の身を傷つける事と同じなのである。ゆえに、日月の官が衰える。日月の官は、つまりは父母・先祖の官である。
*剣難…武士の帯刀が日常化していた江戸期では、剣難と言えば読んで字の如く刀が関わる災難を指した。現代では刃傷沙汰はもちろん、交通事故など、主に突発的に遭う災難を指す。
↑図4
↑図5
気血が健やかである時は心気も健やかで、掌中に紅潤が現れる。また、心気が健やかであれば、その体も健やかで、為す事全てが自然と成就する。手足(しゅそく)は一身の枝であり、気血が不順であれば、四肢に潤いがなくなる。これはまるで、草木の根が健やかでなければ枝葉が衰える事に等しい。ゆえに、掌中に潤いがない時は、その身は栄える事が出来ず、何をやってもうまく行かず、安定しない。また人は、気血の不順によって発病する。気血がよく循環する事で、その病は治る。ゆえに、病人が快方に向かう前は、自然と掌中に潤いが生じる。また、常に掌中に紅潤がある人は、その紅潤が散失する前は、まずは潤いを失い、その後に紅色が散るものである。逆に、常に掌中が枯れている人は、紅潤が生じる前は、まずは潤いを得て、その後に紅色が現れる。顔面部に現れる血色も同様で、良い血色が現れる前はまず潤いが生じ、悪い血色が現れる前は平素の潤いを先に失う。よって、紅色が現れていても掌中が枯れて乾いているのか、潤沢なのか否かに注意して観なさい。
↑図6
↑図7
心気が弱く、括(しま)りがない者は、自然と心気が面上に脱する。ゆえに、自然と顔の肉が垂れる。この場合は面(=顔)に潤いがあって、肉が満ちたように観えるが、本当に肉が満ちた状態とは言えぬゆえ、濁肉(だくにく)と名付ける。また、心気が強く、よく活(しま)っている者は、気血が乱れず、血色が静かに現れ、肉も締まっている。このような者も苦労がないのに肉が衰え、痩せたように観えるが、実際に痩せているとは限らぬゆえ、肉締(にくてい)と名付ける。大いに吉である。また、生まれつき心気が弱い者は、気色が衰えて生じる。ゆえに、血色に力強さがない。また、肉が満ちる事もなく、肉が薄く観える。これを薄肉(はくにく)と言う。つまりは貧寒とした人にある相である。生まれつき心気が強い者は、気色が健やかに発していて、自然と血色に力強さがある。ゆえに、肉が充実して肥えたように観える。これを肉の厚き(厚肉)と言う。つまりは富貴の人にある相である。また、長期間困窮して面色が衰えている人の運気が良くなる時は、その面色が肥えたように観える。しかし、これは実際に肥えているとは限らない。心気が健やかになり、気が内に満ちるがゆえ、その気が自然と面上に発現し、肥えたように観えるのである。これを肉色(にくしょく)と名付ける。元来、肉は心気から起こるものであり、心気が衰えれば気色が衰え、気色が衰えれば血色が衰え、血色が衰えれば自然と肉が衰える。衰えた肉には自然と潤いがない。また、濁肉には潤いはあるが神(≒神気)がない。厚い肉が健やかで、潤いがある時は神がある。これらはことごとく、心気によるものである。心気は小天地(≒人体)の太極であり、万事の吉凶によって起こるものである。
暗気とは、薄暗い色である。黒色とは、甚だしく暗い色である。人に現れる気色は、天地の順気に応じている。例えば、太陽が東から昇る前は、天地はぼんやりと暗い。これを平旦三の暗(へいたんさんのあん)と言い、黒色に等しい。これはつまり、陰気が尽きて、陽気が巡り出すという道理に応じている。ゆえに、暗気が黒色に変じる時は、徐々に陽気が増加するため、大いに良い。
*この内容は太極図を参考にするとわかりやすい。要するに、陰極まって陽となるの道理である。
剣難に遭って死ぬ者には、死相が現れない。そもそも命というものは、天から与えられるものである。病によって自然に死ぬ者は天命が尽き、心・脾・腎が自然と衰え、五行が全てその元へ帰る。五行がその元へ帰る事によって、自然と死相が現れる。ゆえに、病死の場合は明らかな死相が現れる。しかし、剣難で死ぬ者は、死に至るまではその体は健やかであり、五臓が病む事もない。よって、五行も健全であるため死相が現れない。一方、眼は一身の日月であるため、剣死の相は眼に現れる。
*五行…木・火・土・金・水の五つの元素の事。
↑図8
若年で未だ職業が安定してない者は、世事の辛労は自ずから少ない。つまり、気を使うことがなく、心が安逸であれば、天が明らかで障害がないに等しい。ゆえに、額は自然と晴れやかである。一方、すでに職業が定まっている者は、その仕事が次第に繁盛してくるにしたがって、人に気を使うようになる。つまり、万事に心を凝らす事が多くなれば、心・肝の気を使い過ぎて、その気が上停に走り、陽明に現れる。ゆえに、額に焦げ付いたような色が現れる。これは、その職業が盛んであるためである。よって、凶とは限らない。また、この黒色は、肝気が高ぶっていてイライラしやすい人に多く現れる。古書には、額の左右に黒色が現れる時は大難がある、と記されているが、この黒色とは異なる。古書にある黒色とは、潤いがなく、叢雲(むらくも)が峰が現れているように観える色である。古書で言う大難とはその当時に来る悪事のため、その黒色は上塗りしたように観える。私が言う黒色は、その当時の事ではない。このため、額が焦げ付いたように観える。また、元々は良い色であるため、自然と潤いを含んでいる。この色は平旦の潤色と名付ける。日色(じっしょく、=太陽光)が東方に映る、という意味である。
人には陽火が根源にある。また、額は諸陽の経絡が集まる場所であり、陽明に属し、陽火を司る場所でもある。湿病というものは本来、水気から生じる。ゆえに、身体に湿気を含む事が甚だしい時は、一身の陽火がその水気に覆われ、額が自然と曇るのである。もし、闘病中にその曇りが明らかに晴れる事があれば、その水気が益々甚だしくなっているのであり、終には身の陽火が剋滅する事になる。これは、真の意味で曇りが晴れるという事ではない。天から与えられた寿命が尽き、己の陽火が天に帰ろうとするゆえに、額が自然と晴れるのである。この道理を踏まえて推察するならば、湿病でなくとも人が臨終を迎える時は、誰しも額が晴れる事になる。これは天命が尽きるという事である。
↑図9
↑図10
↑図11
↑図12
↑図13
以上のような血色が現れる時は、たとえ小難であっても大難に変じ、己の身の上に降りかかる事となる。眼は一身の日月(じつげつ、≒陽陰)に象り、また左右の眉は羅睺星(らごせい、らごしょう)、計都星(けいとせい)に象る。ゆえに、眉の中から赤気が出て、眼を覆う時は、これを羅計の二星が日月を覆う表象であるとする。
↑図15
↑図14
↑図16
左側は陽に属し、夫とする(=夫の事を観る)。左の妻妾宮が紅潤である時は、夫は妻に満足しておらず、心(≒血色)が動きやすい。ゆえに、紅潤が現れる。右は陰に属し、妻とする(妻の事を観る。)右の妻妾宮の血色が収まっていて紅潤が現れていない時は、妻は夫に満足しており、心が動く事もない。全てにおいて、心が動く時は自然と血色が現れ、心が動かない時は気が丹田に収まっているため血色は現れない。つまり、面上(=顔面上)に現れないのである。
*女性は左右逆で観る。
前段のように、妻妾は夫婦の関係を観る部位である。また、青色(せいしょく)は肝気から起こる怒りの色である。ゆえに、不仲である、と観る。夫婦が互いに、常に怒りの感情を抱いていれば、自然と離別するものであると理解しておきなさい。
胸は君火(くんか)であり、心火を司る。また、赤は心(しん)の色である。そもそも、人は心気を源とする。ゆえに、心気が強い者は、自然と胸が赤い。これは、君火の光の表象である。また、心気が健やかで盛んな時は、心神(≒精神)も自然と清らかで、運気もよく巡るものである。そのような時は、自然と赤色に潤いが生じる。
*弁柄…Bengala、紅柄、鉄丹とも。インド北東部のベンガル地方で産出していた赤色顔料の一つ。黄色が交じったような赤色の粉末で、絵具や染料として用いられた。
人の顔には、自然と山海が備わっている。鼻を山とし、口を海とする。鼻と口の間の溝を人中(にんちゅう)と言い、これを民衆の表象とする。民衆は君主のために貢物を作り、献上するものである。ゆえに、人中の左右を食禄の官と名付け、家督の事を司るのである。よって、家督が衰える時は、自然と食禄の官も衰え、悪色が現れる。逆に、家督についての悦びがある時は、潤色が現れる。法令線の内側は全て食禄の官とする。また、法令線の内側は内心(≒内界、家内)の事を司り、外側は世間の事を司る。ゆえに、食禄の官から血色が出て、法令線の外側へ現れる時は、心中の悦び事が世間に現れる(≒実現する)と観る。
鼻は顔の中央にあり、人体五行の土(ど)に属す。黒は水(すい)の色である。ゆえに、黒色が鼻を取り巻く時は、水によって己の体である土を剋す事に等しい。よって、これを水難であると言う。また、唇は脾・土に属す。ゆえに、黒色が唇に入る時も同様に、水剋土の道理をもって水難と言う。さらに、口を大海とし、黒色が外から口に入る時は、水が溢れて水路がなかった場所に水路が出来ると喩(たと)え、水難があると言う。
大体において、このような者はたとえ病んだとしても長く患う事はない。まずは頓死(=急死)の類であると観る。だが、頓死の相とは言っても、その他に特徴はない。何よりも、頓死は心(=神気)が薄く、肝気が強い人に多い。心・脾・腎が衰えれば体は健やかではなくなるが、肝気が強い者はそれらが衰えても万事において変化がないように観える。しかし、その相貌に神(=神気)はない。俗に、「影がない人」であると言う。長病になることなく、死ぬ。病人においても、死ぬ直前であるにも関わらず言葉が明瞭で声も良く聞こえる場合があるが、これは肝気の影響である(←つまりは死相の一つ)。
*肝気が強い…肝は、五行においては、怒りの感情を司っている。よって、肝気が強い者は常にイライラしがちであり、傍目からみると神経質で、落ち着かない感じがする。酷く肝気が強い場合はヒステリーであり、短気で爆発的、激烈な感じに観える。短気な者は常に重心が上方に集まっているゆえ、呼吸が浅く、上気していて、顔が赤らんでいたり、目が血走っていたりする。また、早口で、セカセカしがちで、しゃべらずとも、相対する者をイライラさせる雰囲気が非常に強い場合は悪相である。顴骨(=頬骨)が出ている上に、痩せ型で目に異常があると確実に肝気が強く、ヒステリックかつ攻撃的な場合が多い。
↑図17
↑図18
↑図C
↑図B
↑図A
まず、上停の辺地は額の左右にある。つまり、鬢(びん)の角から髪際を下がった眉尻までの間を、上停の辺地と言う。また、眉尻から耳たぶまでの間を、中停の辺地と言う。さらに、耳たぶから横骨(おうこつ)までの間を、下停の辺地と言う。そもそも、鼻は面部(=顔)の中心(=中央)であり、都(=首都)の表象である。ゆえに、顔全体の周囲を辺地とし、顔全体の周囲から中央へ向かう血色は全て辺地(=遠く離れた場所、田舎)あるいは外(≒外国)から来る事象であるとする。だが、命門、奸門は女(=異性)の事や淫慾の事を司るため、この部位から中央へ向かう血色については、辺地に関する事象であるとは断定出来ない。確かに多くの場合、淫慾女色の事は外から来る事象ではあるのだが、すぐに外から来る事象であると断定してはならない。上停には天中、天陽、高広の三穴が広がり、天を表象しているゆえ、必ずしも辺地とするべきではない。また、下停には地閣、奴僕、横骨の三穴が厚く、大地を表象しているゆえ、必ずしも辺地とするべきではない。
*三停…面部(=顔)を上から三等分した観方で、額の高さの範囲を上停、鼻の高さの範囲を中停、顎の高さの範囲を下停とする。つまり、三歳(=三才、天人地)を面部に応用した観方である。
*鬢…現代ではなぜか、耳の前あたりの髪の毛、つまりは「もみあげ」部分だけを指すようである。諸々の出版社の辞書においても、そのように説明されている(『古語大辞典(小学館、1983)』には「頭の両側面の髪。耳の上の髪。こめかみの毛。」とある)。しかし、本来は頭部側面の毛髪全体を指していたようで、この文章においても「鬢=もみあげ」とすると辻褄が合わない。賓(ひん)は「連なる、並ぶ」の意であり、「側頭部に位置し、側頭筋を覆う髪の毛」と考える方がシックリくる。ちなみに、俗に言う鬢付け油は、日本髪で主に側頭部の髪を固定する時に使うものである。もみあげだけを固定するのではない。さらに、『源氏物語』には「御鬢かき給ふとて、鏡台に寄り給へるに」とある。
そもそも、人は心(しん、≒身、神)を天から受け、体(たい)を地で作り上げる。つまり、天地から心体を生ずる。ゆえに、人が死ぬと魂(こん、≒心、身、神)は天に帰り、魄(はく、≒体)は地に帰る。このため、人々はその相貌を異にするとは言っても、天地から受け得た心体であるならば、始めから悪心悪相が備わっているという事はない。しかし、人には心・意の二つがあり、生まれたばかりの頃は、心相だけゆえ変化する事もないが、成長するにしたがって意(い)を生じるようになり、その意にしたがって相が変化していくのである。これは決して特別なことではなく、誰しもに当てはまる事である。意が大悪で、本当に乱暴な者は、外相(≒外面)をよく繕い(=隠し)、意内の悪を現わす事はない。ゆえに、諸人はこれの衒売(げんばい、≒自己宣伝)に誑(たぶら)かされ、本質を見誤るのである。ゆえに、外相が完全であるのになぜ刑罪に遭うのか、と不思議に思うであろうが、結局は意内に大悪が存在する結果なのである。したがって、外相が完全でなくとも(≒外面が醜くても)、意に欠けたところがない者には自然と天地の擁護があり、老いても困窮することはない。
*心…語源は心臓の象形である。また、知・情・意の本体であり、天(≒神)から賜る生命、魂の類である。受動的かつ先天的に備わっている「こころ」である。
*意…言葉になる前の「おもい」。意識が芽生えるにしたがって形成されいく、「こころ」である。ここでは心と対照的に扱われている。能動的かつ後天的に備わる「こころ」である。
凶事が来るゆえに、その血色が自然と現れるのである。そもそも、禍福吉凶(かふくきっきょう)は行いの善悪によって起こるものである。善い行いがあれば、吉事の応報がある。逆に、悪い行いがあれば、凶事の応報がある。つまりはこれを因果と言う。この天の報応(ほうおう)をどうして恐れぬ事が出来ようか。時には、己が気がつかぬうちに悪い事をしてしまう場合がある。また、善いと思って行った事が、結果的には悪い事をしたようになってしまう場合がある。そのような時、天(≒神仏、先祖など)がその人の相に悪色を現わし、その行いを警(いまし)めて下さる。だが、その人がその行いを改める事がなければ、ついには報いとして凶事がやって来るのである。また、無念無相の人は一天に曇りがなきが如く、「風雨(=吉凶)」の変化がない。たとえ変化があったとしても、それは時侯(じこう)の風雨の如く、過ぎ去ってしまえば何事もなかったかのようである。意が動き、悪の念が起こる時は大いに変化し、村雲(むらくも)の如く悪色が現れ、凶事がたちまちにしてやってくる。また、わずかな一善であってもこれを実行する時は、その徳は天倉(てんそう)に収まり、天福の官に潤色を生じ、たちまちにして吉事がやってくる。また、たとえわずかであっても悪を行う時は、天福の肉付きは自然と衰え、悪事が因縁となって生涯離れることなく、天がその報いとして、一度はその因縁に関する凶事を己に与えて下さるのである。これはすなわち天命(≒運命)である。一方、善事を行う時は、自然と意中(≒心中)でこれを悟っている。つまり、善事は吉事の因縁となって生涯離れる事がない、という事を識(し)っているため、自然と意中は穏やかになるのである。ゆえに、天はこれに報い、その因縁に関する吉事を一度は己に与えて下さる。吉事、凶事とも、全ては己の行いの善悪によって生ずるものであり、その他の要因によって生ずるものではない。
*時候…四季それぞれにおける気候や天候の事。
↑図19
そもそも、命というものは天命であり、その寿夭は己の行動の如何によって異なる。さらに、人は陽火(≒心、心臓)の一元気によって生きている。もし、この陽火を減らし損なうような事があれば、夭折するのである。逆に、しっかりと養い保つ時は、寿耇(じゅこう、=長寿)となる。陽火を減損するのは、飲食を慎まず、飲食を過度にする事が原因である。酒食を程良くせず常に度が過ぎる人は、外見には健やかに観えるが、肝気が高ぶっているため、決して健やかではない。酒肉(=酒と肉食、≒酒と性欲)の度が過ぎると肝気が高ぶるのは、酒肉を運化(≒消化)する脾気を傷つける事が原因である。どうしてかと言えば、土(=脾)が肥えれば木(=肝)はよく茂るが、木が茂って盛んになれば、逆に土(の養分)を損傷するからである。結果的に、土が損傷すれば、木も枯れる。これはつまり、肝木が脾土を剋し(=損傷し)、木が一時的に茂り、盛んになっている、という状態である。ゆえに、肝気が高ぶるのである。さらに、木は火を生ずる元であり、木が枯れる時は、火(=陽火、命の火、心、心臓)も共に滅する。ゆえに、長寿を全う出来ない。例えるならば、それは灯火(ともしび)に燈草(=灯心)を多く入れ、しきりにかき立てるに等しい。その火は盛んに燃え上がるが油の消費は早く、終には油が尽きて火は消えてしまう。よって、酒食の度が過ぎる人は外見は健やかなのだが、その灯火が盛んな状態に等しい。どうして頼りになど出来ようか。また、生まれつきに陽火が弱い人であっても、三白諸青(さんぱくしょせい)によって脾の気に耐えうるほどに養う時は、一身の陽火が尽きる事もなく、その灯火の灯心を節約して長い夜を無事に過ごすに等しい。この場合は身体が衰えたように観えるが、終には天命をよく保ち、長寿を全うする。当然ながら、生まれつきに陽火が盛んな者であっても、三白諸青によって養生を修めれば、長寿を保つ事が出来る。田村山郭(でんそんさんかく、≒山間部)に住む者は生まれつき健やかである上に、常に酒肉の乏しい三白諸青中心の食生活である。ゆえに、一身の陽火を養う事を全うし、身体は石の如く、面色は銅(あかがね)の如く、皮膚には締まりがあって肉は程良く硬い。このため、若死にする者は少ない。古書にも、身体の肉が締まった者は無病にして長命を保つ、とある。陽火が弱い者が酒肉を貪り脾の気に耐えられなくなってしまえば、陽火が弱いがゆえにその食を運化(≒消化)する事が出来ず、その酒肉の摂り過ぎが原因で五臓を損傷し、終には夭折する。そのようにして酒肉が度を過ぎる時は、自然と体が熱して、たちまちに陽火を減らし、漏らしてしまう。これは酒肉の気が勝るためで、面色には潤(うるお)いがあり、身体が肥えているように観えるが、根本にある陽火は減脱しているために、その色は神(しん、≒神気)を保持する事が出来ず、自然と肉が垂れている。これは潤色でもなければ、肥えているわけでもない。肉付きに締まりがなく、垂れている者は夭相あるいは短命であると言う。また、たとえ酒肉が度を過ぎても、一身の君臣が統制されている者は、肉が垂れる事はないと言う。ゆえに、「命(めい)は食に在り」と言うのである。
*三白諸青…米、塩、大根を三白、蔬菜(そさい、=あおもの)を諸青(しょせい)とする。
私は若かりし頃、ある男を観た。まず、その上停を観ると、辺地の官に小豆くらいの大きさの、肉の盛り上がりがあった。その部分の上には幽かな赤色の糸のようなものが下がっており、下がった部位では散ったように広がっていた。その広がった色は、まさに血のようであった。これを観て私は判断し、「あなたは近日中に他国へ行き、必ず高い所から落ちて大怪我をするでしょう。」と言った。だが、彼は、「俺は他国へ行った事など一度もないし、今後行く予定もない。そうであれば、怪我などするはずもなかろう。」と言って私を責め、帰っていった。それから三日後、その男は屋根から落ちて大怪我をした、と言う事であった。また、その男は屋根葺きを職とする者であり、他国へ行く事はめったにない、と言う事でもあった。この一件を踏まえて考えると、観相したいと思った場合、まずはその人物の職業諸般についてしっかりと観定める必要はあるが、十分に論じ過ぎてはならない、という事が重要である。前談の話において私も、「怪我をする」とだけ説いておけば、見事に的中していたのである。だが、己の高慢さによって理性を失い、反って判断を誤ったのである。ゆえに、観相するたびに的中させ、人々を驚かせようという高慢な思いがある時は、必ず心がそわそわとして落ち着きがないため、その後に起こるであろう出来事を的確に観抜く事は出来ず、大いに判断を誤るのである。そもそも、観相というものは、一己(いっこ、=自分一人)の我(が、≒我見、我執、我意)を離れ、天地同体となって観察するものである。ゆえに、観相、と言う。また観相とは、ただ人の相貌(かたち)を観察する事ではない。その人の天を観る事であろう。ゆえにこれを観相、と言うのである。そのようにしてよく観ようとすれば、的中させる事は大地を打つよりも容易い。滑稽な様子で「観相、観相」と喧伝する輩は、己を知らざる愚昧(ぐまい、≒愚か者)であり、大衆を衒売(げんばい、≒騙して売る、詐欺)して利益を貪る賊徒(ぞくと、=泥棒の仲間)である。また、相法家における罪人である。私が門人に対して、普段からこの事を警告するゆえんである。
*他国…よその土地。他郷。外国。
*「大地を打つ」…原文のままである。これは「大地に槌」とか、「槌で大地を叩く」、という諺からの引用であると思われる。つまり、動かざる大地を槌で打つ事は簡単だ、という事から、容易い、の意とする諺である。
両眉の間を上丹田とし、これを臣意(しんい)の会の幽見(ゆうけん)と言う。これが一眼である。胸を中丹田とし、これを将意(しょうい)の会の幽察(ゆうさつ)と言う。これが二眼である。臍下(さいか)を下丹田とし、これを君心の会の止観(しかん)と言う。これが三眼である。臣意とはどのようなものであろうか。臣(=臣下)とは君(=君主)に対する呼称であり、君の命令によって奔走する者である。では、幽見とは何か。大体において人は、幽冥(ゆうめい)で認識し難い事をみようとする場合、まずは両眼を閉じて、両眉の間に意識を集中する。そのようにして想索する時は、千里の外(ほか、≒未来、霊界)をも知る事がある。また、暗夜にて物を索(もと)める時、人は皆両眼を閉じて意識を集中し、物を得ようとする。つまり、意会(いかい、意識を集める事)によって幽冥をみようとするので、幽見と言うのである。将意とは何か。将帥という者は、謀慮(ぼうりょ)を司る。では、幽察とは何か。そもそも、臣意(≒一眼)は幽冥を千里の外にみるのだが、これを謀慮する事は出来ない。だが、胸中(≒二眼)においてこれを幽察し謀(はか)る時は、千里の外の事にまで思いを巡らす事が出来る。ゆえに、これを幽察と言う。また、中丹田(≒二眼)は六根の根源である。よって、相者はもちろん、貴人、賤人ともに、臣将の見察(=臣意の幽見と将意の幽察)を用いる事はない。君心とは何か。そもそも、下丹田は法性(ほっしょう)の気が輻輳(ふくそう、≒集合)する場所であり、まるで君王の御所に諸国の大名が参勤する様子に等しい。ゆえに、これを気海(きかい)とも言う。止観とは何か。有ると思えば有るし、無いと思えば無いような存在である有無の間隙を、心を静めた上で観察し、感じ取る事である。これは浩然の気のようであり、言葉では非常に表現し難い。
*法性…仏教における全世界の存在。真如、法界などと同義。
*参勤…江戸期において、諸大名が出仕し、主君に拝謁する事。参勤交代とも。各地の文化交流、交通路の発展に寄与した制度である。
*気海…鍼灸におけるツボ(経穴)であり、チャクラ、丹田の部位に相当する。臍下1.5寸の部位。
*浩然の気…天地に充満している気の事。
↑図20『相生相剋の図(院長作)』(相剋には「順剋」と「逆剋」があるが、必ず互いに影響し合う。)