巻ノ一 目録
一 面部二十一穴の部
一 面部七穴の図
一 額の部
一 福堂(ふくどう)の部
一 顴骨(けんこつ)の部
一 命宮(めいきゅう)の部
一 鼻の部
一 法令(ほうれい)の部
一 食禄(しょくろく)の部
一 妻妾(さいしょう)の部
一 命門(めいもん)の部
一 眼・男女宮の部
一 魚尾(ぎょび)・奸門(かんもん)の部
一 天中(てんちゅう)・官禄(かんろく)の部
一 日月(じつげつ)・印堂(いんどう)の部
一 唇・承漿(しょうしょう)の部
一 駅馬(えきま)の部
一 面色の部
一 風当(ふうとう)・地庫(ちこ)・頤(おとがい)・胸・盗官(とうかん)の部
一 気色位の事
巻ノ二 目録
一 血色の部の論弁
巻ノ三 目録
一 血色の部、八色の弁
一 二十一穴の図
一 血色の潤いの有無を論ず
一 七穴の図
一 血色の出生を論ず
一 血色の潤いの有無を論ず
巻ノ四 目録
一 月割・日割の弁
一 月割の図
一 月の割様を弁ず
一 月の吉凶を弁ず
一 日割の図
一 日の吉凶を弁ず
一 四季の図
一 当時の方角の図
一 万法の方角の図
一 方角の穴所を弁ず
一 方角の吉凶
一 正五九月の図
一 二八月の図
一 他身の五臓の吉凶・死生を弁ず
一 家宅の弁
一 流年の吉凶の事を弁ず
一 流年の四季、十二か月を弁ず
巻ノ五 目録
一 気色の湊走る様を弁ず
一 気色の湊走るの図
一 交同の気色の図
一 交齬の気色の図
一 羅色の図
一 待人の来る、来ないを論ず
一 旅行・道中・行先の吉凶を論ず
一 殺伐の気色の弁
道は人を待って広まる。道は自然に広まるものではない。先王(せんのう)の道は、孔子によって隆盛したに等しい。釈迦の道は、瞿雲(くどん)によって繁茂したに等しい。この相道(そうどう)も、「その人」が存在しなければ、広まることはない。古人は相道がどういうものなのか、明らかにしてこなかった。よって、孔子は子羽を観損ない、太史公は李陵を想い違った。また、荀子の論弁や南華の見識も、相道を知らなかったことによる誤りである。
私は幼少から書を読むことを嫌い、悪行を治めようともしなかった。元来私は愚才短蒙で、一字を解すことも出来なかった。かつて海常先生に随(したが)い、『神相全編』の要点を聞くことわずか二、三日。それでも心に得たものは思いもまた深く、以来長年、相法に心を寄せることになったのである。しかし、私は一字も知らぬ者であったゆえ、世の多くの相書も読めず、師を求めることもなく、ただ思いを工夫するだけであった。そうするだけでも、わずかながら得るものがあったように思う。
その後、私は実地で衆人を観相したいと思うようになり、「相者」に身を窶(やつ)し、諸国を歴遊した。しかし、私は生まれながらにして容貌が卑陋(ひろう)であり、特に当時は非常に醜(みにく)かった。したがって、どこへ行っても、一人として私に観相を請う者はいなかった。何とかして観相したいと強く思っても、受け入れてくれる人がいなければ、どうすることも出来ない。そういうわけで、だんだん私は零落(おちぶ)れて、「一宿の謝」、「一飯の報」に換(か)えて人を観相するようになり、約十年が過ぎた。これによって、多くの観相を遂げることになり、大いにこの道を明らかにすることが出来た。未熟ながらも、古人、今人の言うところを理解することが出来たのである。
世の中に吉凶の変化がある時は、天に日月星辰(じつげつせいしん)の順逆がある。それは地に山川草木(さんせんそうもく)の栄枯があるに等しい。また人は、「小天地(≒小宇宙)」であるゆえ、吉凶があればその変化が必ず相に現れる。これは自然の道理である。さらに、天地の変化といえども、その国君(≒君主)の徳、不徳によって、凶が吉となり、吉が凶となるという理がある。私は衆人を観相して、この事を知得(ちとく)した。初めて、血色、流年(りゅうねん)の事を悟ったのである。南北相法前編では、このことについては言及していなかったが、後編においては、同好の士(ひと)に示すつもりである。
私の曖昧不才は、人の知るところである。然らば、己(おのれ)の不文を恥じることもあるまい。理解ある人は、私の固陋(ころう)を厭(いと)わないはずである。私がこの道において、たいそう多くのものを得ていることを知ったならば、かの道は「人を待って広まる」であろう。私はこのことを辱(かたじけな)く思うが、どうして止めることが出来ようか。いや、出来るはずがない。
↑歌川広重『順慶町夜見世之図』。画像左上、筮竹と台灯篭を前に座る、虚無僧姿の人物がみえる。「画相」や「気・血色」は、行灯(あんどん)の淡い明りで観易くなると言われており、当時の人相観は好んで夕暮れ後の街頭に現れたと思われる。また、人相観は隠者(裏方仕事人)ゆえ、暗くなってからヒッソリと活動するのが当時の道理であった。現在のように煌びやかに着飾ったり、メディアで頻繁に露出して騒ぐ輩は、真の人相観からはほど遠いと言える。真の人相観は、画像の虚無僧のように、ヒッソリと佇(たたず)んでいるのがよろしい。ちなみに、画像右上に描かれている暗雲は、浮世絵における「夜」のメタファーである。
一 水(みず)は陰であり、血(ち)を生ずる。すなわち、母である。
一 火(ひ)は陽であり、脈を生ずる。すなわち、父である。
一 地は陰であり、血を生ずる。すなわち、母である。
↑「人身禀生図(じんしんしょうをうけるのず)」
↑「四大(しだい)」
↑「人身五徳備図(じんしんごとくそなわるのず)」
春、青気(せいき)は辺地(へんち)の周辺にあり。少し潤(うるお)いあり。
夏、青気は上停(じょうてい)にあり。衰えて潤いなし。
秋、青気は中巡から地閣(ちかく)・奴僕(ぬぼく)の方向にある。
冬、青気は下巡から三陰三陽(眼の周辺)にあり。潤いがあって、多くは左にあり。
春、黄気(こうき)は口を取り巻き、枯れて潤いなし。
夏、黄気は中巡から地閣・奴僕の方面にあり。
秋、黄気は上巡から土星(=鼻)左右の際にあり。
冬、黄気は額の左右にあって、少し潤いあり。
春、赤気(しゃっき)は顴骨(けんこつ)にあり。少し潤いあり。
夏、赤気は中巡から妻妾(さいしょう)・命門(めいもん)にあり。少し潤いあり。
秋、赤気は眼中の白仁(しろたま)にあるべし。
冬、赤気は中巡から顴骨・土星にあり。
春、黒気(こっき)は上巡から家続・男女の方面にあり。多くは右にあり。
夏、黒気は地庫の周辺にあり、上停の方面に流れる。
秋、黒気は中巡から命門の周辺にあり。
冬、黒気は中巡から上停にあり。少し潤いあり。
白気は四季の土用(どよう)に変動するため、観定め難い。私は色々と心魂を凝らし、白気の常色を観ようと試みたが、未だに観止めることが出来ない。将来の相師が白気の常色を明らかにすることを願う。
上記の気色については、常色と言って、誰にでも常に現れている気色のことである。つまり、常色で善悪については判断しない。未熟な相師は、この常色を観て、場合によっては善悪・吉凶を判断してしまう。さらに、結果的に吉凶の変化がなければ(変化がないのは当然のことだが)、「気色・血色は当てにならない(当たらない)。」などと、大いに相法を非難する。これはつまり、己の心意両眼(しんいりょうがん)が上達していないことが原因である。よって、このような輩が属する流派では常色について詳しく論じる、という過ちを犯すのである。
天陽(てんよう)・高広(こうこう)・天中(てんちゅう)・主骨(しゅこつ)・日月(じつげつ、=日角、月角)・辺地(へんち)・山林(さんりん)・福堂(ふくどう)・諸友(しょゆう、=交友)・兄弟(けいてい)・奸門(かんもん)・妻妾(さいしょう)・男女(だんじょ、=涙堂)・顴骨(けんこつ)・命宮(めいきゅう)・土星(どせい)・食禄(しょくろく)・法令(ほうれい)・承漿(しょうしょう)・奴僕(ぬぼく)・地閣(ちかく)
↑「面部二十一穴之図」
神光(しんこう)・官禄(かんろく)・駅馬(えきば)・印堂(いんどう)・家続(かぞく)・魚尾(ぎょび)・左身右身(さしんうしん)
↑「面部七穴之図」
↑図1
↑図2
↑図3
↑図4
以上の蒙色は、命宮から昇って官禄の左右へ散るように広がり、官禄の穴所を囲むように現れる。また、眼中が鋭く、血走るようで、自然と殺伐とした気が観える。さらに、天陽・主骨の辺りに暗気がある。蒙色とは、まずは曇ったような色であると心得なさい。
↑図5
以上の暗蒙とは一面が暗いようで、青ざめたように曇ることを言う。また、赤紋は重なって紾(ねじれ)たように現れる。
↑図6
↑図7
たとえ陰徳ではなくとも、人命を救うほどのことをすれば、たちまちこの血色が現れる。また、この血色は万悪の敵(かたき)であるゆえ、他に悪色があったとしても、この血色があれば「悪い」とは判断しない。だが、世の相者においては及ばざるところであり、陰徳忠孝は相師の敵になってしまっている。
↑図8
額が明るく、曇りがなく、例えるならば油を塗ったようにテカテカと光っていることを指す。この潤光が去って、血色が悪くなるにしたがって、自然と運が良くなる。この相の人は、一見すると顔一面に曇りがなく血色が良いように観える。この逆説的な理(ことわり)については後篇巻ノ二に記す。
*基本的に、額が晴れやかに光って観えるのは、万事がうまくいっている相である。しかし、中庸という言葉もあるように、人相術においても「過ぎたるは猶及ばざるが如し」で、度を過ごした相は凶である。初学者や修養の足らぬ者は観誤らないように注意すべし。ちなみに、後篇巻ノ二には「上帝(=上停、額のこと)明らかにして、油を塗りたる如く光ある者は大いに凶にして、万事調い難し。」とある。この文章の詳しい解説は後篇巻ノ二を参照。
以上の「黒」は、焦げたように観える。だが、黒い色の中に自然と潤いがある。第一には、額の中央は黒くなく、自然と晴れやかである。また、大難があって額の左右が黒くなっている者がいるが、この場合の「黒」は淋しく、汚らしく観える。
↑図9
↑図10
↑図11
↑図12
↑A図
↑図13
以上の黒色は、小指の腹で押したほどの大きさで、幽(かす)かに観える。また、破産する前は福堂の肉が枯れたようで、自然と曇って観える。破産した後、黒色となる。しかし、破産の程度が軽い人は、福堂に現れない。大きく破産し、その後も発展がない人には、黒色がいつまでも残って現れている。以上の黒色は、八カ月も愁い事が続いている人に現れている黒色と観間違いやすい。第一に、この黒色は愁いの内容によっては、現れないこともある。
↑図14
↑図15
以上の「暗色」は、燻(くすぶ)ったように観えたり、蒙色のように観えたりする事もある。あるいは、淋しく大地が荒れたように観える事もある。念のため、後見人でないかどうか確認しておくべきである。
↑図16
以上の「黒色」は、顴骨の上、目尻際の下に現れる。左右とも、常に現れる。また、眼の下から顴骨まで、黒くつながって現れる事もある。ほとんどの場合、顴骨が高い人に現れる相である。俗に、眼の下が黒い者は淫乱であるとは言うが、必ずしも淫乱とは限らない。つまり、肝気が強いゆえの、物事において性急な人である。よって、この人はイライラして心が動揺するとたちまち、眼の下に黒気を生ずる。これはすべて腎気が薄く、肝気が高まっている事が原因である。
*五行説において、肝(≒現代医学における肝臓)は怒り、青色を司るとされる。
*「顴骨の高い人に多く現れる」…顴骨が目立って高い人は、肝の勢いが気質的に強い。「三型質」で言えば、「心性質」にあたる。男性において顴骨が適度に高いのは吉相だが、女性においては凶相であり(特に前方に高く張る場合)、攻撃性の強い相、ヒステリーの相、後家相であると観る。中世ヨーロッパでは、ヒステリーは「性器がグルグル回る病気」であるとされたらしいが、人相術では「ヒステリー≒欲求不満≒淫乱」であると観る。現代医学的に言えば、顴骨が高い女性は自律神経を失調しやすく、情緒不安定になりがちである。その証拠に、自律神経の根元である背部の筋肉がガチガチである(ゆえに私は背中に鍼を刺し、自律神経の安定を促す→刺鍼により、ある程度の性質改造は可能)。ちなみに、人相術における青色は、前述したように肝を象徴する色であるが、肝はまた五行の「木(もく)=成長期、成長過程」をも象徴し、「青色=未熟」であると観る。つまり、自然界においての青色が未成熟の色であるように、人相術においても青色は「未成熟、未完成、幼児性」を暗示するのである。例えば、珀(=眼球の白目部分)に青筋(=静脈)が浮いていたり、珀全体が青みがかっている女性(男性も同様)は「熟(う)れて」おらず、処女(男性は童貞)であるとか、幼児性(≒残虐性≒ヒステリー)が残存しているとか、性的に未成熟(≒性的経験が少ない→正常に欲求を昇華しきれなかった場合は淫乱性がある)であると観る。ついでに言えば、妻妾宮(さいしょうきゅう、=目尻)に青筋がある(静脈が怒張している)場合は、男女間の不仲を暗示し、別離・離婚の相と観て間違いない。
*涙堂(下まぶた)は、腎(≒現代医学における腎臓)や泌尿・生殖器の状態を観るのだが、簡単に言えば、涙堂の黒さはそれらの機能が亢進または低下していると観る。つまり、涙堂の黒気は淫乱(精力亢進)かインポ(精力低下)と観るのである。さらに、涙堂の黒気は陰徳の欠如、下半身の冷え、生殖能力の低下、不妊症、不感症、陰湿な性格(腹黒さ)、子供におけるトラブルなどを暗示する。涙堂はふっくらとして、血色と艶が程良いものを、最上とする。眼と涙堂に異常がある場合は、危険な人物であると観て間違いない。ちなみに、精力の乱費は生命力の損失、ひいては運気の損失に直結するゆえ、程々に「慎む」のが賢明である。「水商売」に長年関わる者が晩年不幸になるのは、偶然ではない。
身受けする場合は、顴骨から命門まで一面に血色が衰える。血色が良い場合については以上の通りである。ただし、「血色が衰える」というのは、潤いがなく、淋しく観える事を言う。非常に良い場合には、美しい潤いがある。
*身受け…年季(=契約期間)を定めて雇われている芸妓(げいぎ、=芸子)や娼妓(しょうぎ、=娼婦、遊女)などを、身代金と引き換えに落籍(≒退職)させる事。
↑図17
↑図18
以上の「美色」とは、紅潤(こうじゅん)の事を指す。また、病人に現れる美色は紅色がなく、潤いのみがある。もし、紅色がある時は、病に変化がある。
以上の暗色は、燻(くすぶ)ったように観える。また、以上の暗色は家に関する動きを判断するが、人によっては近日中に病気になる、と判断する。家内に辛労事が起こる場合も、以上の暗色が現れる。
命門の美色の中に赤点(しゃくてん)や、その他の障り(悪い相)がある場合は、縁談があったとしても障害が起こり、成就し難い。赤点とは、針の先で突いたように赤いものである。必ずしも吹き出物とは限らない。
↑図19
以上は暗色というよりも、暗気である。よって、幽(かす)かに現れる。また、水難の血色がある上に、任脈(≒主に顔の正中部分。原文では「人脈」)の衰えが際立つ時は、必ず水死する。水に溺れない場合は、真の水難とは言えない。この場合は水損の相である、と言う。よって、溺れるような状況が全くないのに水難の相が現れた時は、必ずその水難の相は、損失の相も兼ねて現れている。水損がある時は、水に剋(こく)される血色が現れる。よって、水損の事は面部(=顔面)の土剋水(どこくすい)、水剋火(すいこくか)の道理をもって考え、知る事が重要である。これは筆談だけでは表現し難い内容である。自分で会得しなさい。また、任脈とは、面部の真ん中、鼻筋の通り道の事を指す。
*水難…水難というと海や川で怪我をしたり溺れたりする事だけを思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、実際の水難は「水」に関する全ての場所・事物が原因で起こる現象を指すため、水に関わる一切の事に注意しなければならない。海や川はもちろん、湖、沼、池、温泉、プール、排水溝、トイレ、風呂場、スキー場、水族館、井戸、飲料水、ダイビング、船、雨等々。当然、津波や鉄砲水などによる自然・人工災害も含まれる。戦国期に活躍したとされる、医者の曲直瀬道三(まなせどうざん)は、脈診によって死脈を察知し津波から村人を救ったと言うが、人相を観抜く事が出来れば、同様にして多くの人命を救う事も可能である。
*水損(すいそん)…水害による損失の事。
以上の黄色は、例えるならば木の葉に斑点が入るように、鼻の穴の縁に現れる。穴の縁(ふち)一面に現れる事もある。また、この黄色は、穴の中から外へ現出する血色である。黄潤が相交わって現れる。淋病(=性病)がある人の白潤と観間違えやすい。よく心得て観なさい。
《鼻の穴の縁(ふち)に白色がある場合は、必ず淋病である》
以上の白色は、鼻の穴の縁(ふち)一面に現れる。その症状によっては、濃く観える事もある。あるいは、白潤に観える事もある。いずれにしても、男根の患いである。また、金銭を得る時や、長い間衰えていた者が盛り返す時、この部位に潤色が現れる事がある。この潤色は淋病の時に現れる白潤と観間違えやすい。よく心得なさい。
《鼻の周りに白気がある場合は、陰蝕瘡(いんきんだむし)の症状がある(図20参照)》
↑図20
↑図21
↑図22
以上の「穢色」とは、汚れたように観える色である。元来この血色は、暗気が現れ、時を経て穢色に変化したものである。また、人によっては暗気のみで終わる事もある。第一に、暗気は少し観え難い事がある。暗気、穢色とも、災難が訪れる事を暗示する点では同じである。暗気も同様に、口と同じくらいの高さで、法令線の外側に現れる。
以上の美色には潤いがある。また、暗色とは言っても幽かで、暗気のように観える。
↑図23
以上の美色は、法令線の根元から起こって、法令線に寄り添うようにして口の辺りまで現れ、下る。また、法令線の外際に現れ、下がる事もある。法令線の内側に現れる事もある。あるいは法令線にかかって現れ、下る事もある。例えば嬰児(えいじ、=緑子、乳児)の小指の先で引いたような広さに現れる。以上の血色は黄気(こうき)に少しの紅気(こうき)が相交じった美色である。
以上の暗色は前項のように、嬰児の小指の先で引いたような広さで現れる。あるいは、法令線の内側に、影が差したように現れる事もある。また、法令線に寄り添うようにして、法令線の内側や外側に現れる事もある。
↑図24
総じて、「道」に背(そむ)くような事を生業(なりわい)とする者は、特に法令線が整っていない。また、法令線ははっきりとしていないので、自然と淋しく観える。
*法令線がハッキリしてくると、男女ともに仕事や部下に恵まれやすい。だが、法令線が深く刻まれる相は本来男性の相であるため、女性で法令線が強く出ている場合は、後家相の一つになる(その代わり仕事には恵まれやすい)。また、法令線は小人形法(→面部と人体を関連させた観方)では脚に対応するため、法令線がハッキリ現れていると健脚であると観る事も出来る。逆に言えば、よく歩く人や、ランニングを趣味とする人には法令線がハッキリと現れやすい。よって私の理論上では、日常的に脚をよく使う事で健脚となり、体内で最も大きい筋肉である大腿四頭筋が活性化されるゆえ、下腿に鬱滞しがちな静脈血の還流が促され、全身の血液の巡りが良くなり、全身の代謝効率が上がり、結果として健康になり、バリバリ働く事が可能となり、相に勢いが出るゆえ、運命にも勢いが生まれ、自然と職に恵まれ、開運につながる、と言えるかもしれない。医学的には1日30分前後歩く事を推奨しているが、週に1日でも2日でも構わないので、少しずつでも継続して歩く事をおススメする。開運の秘訣は、まずは己の健康を維持する事である。相(≒健康状態)に勢いがなくなってくれば、自ずと運命にも陰りが出てくるものである。ついでに言えば、前述した通りに、ハッキリとした法令線は後家相であるため、家庭に落ち着きたいと願う女性は、仕事を夫よりも控えめにした方が賢明である。でないと、確実に後家の運命を辿(たど)る事になる(他にも強い後家相があった場合は特に)。かつて、外(=表、陽のあたる場所)での仕事が男性のモノであったように、男性同様にバリバリ働く女性は男性の相を強く備えるようになり、結果として男を剋す(ダメにする)事になってしまうのである(第一線で活躍する女優やアイドル、女性実業家が良い例)。よって、女性は仕事と家庭を両立させる事は、物理的にも、時間的にも、運命学的にも、極めて不可能に近いと言える。これは過去の事実をみれば明らかである。もし、バリバリ働きながらも男性と良い関係を築きたいと願う女性は、女性的な男性と結婚するか、結婚せずに恋人として付き合うのが良い(結婚すると後家相がより強く男性に影響するため)。とにかく、強い後家相を備える女性が、結婚後も男性と肩を並べ男性並みかつ精力的に働くならば、必ず夫は早死にするか、「ダメ」になるのがオチである。しかし、「徳は相を超える」事が往々にしてあるため、陰徳の有無について含めた上で、慎重に判断しなくてはならない。ちなみに、南北翁が唱えた最大の陰徳とは、食を慎む事(全てに足る事を知る)である。
以上の「泥色」とは、例えるならば垢(あか)が溜まったように観える状態を指す。この色が法令線の中に現れると、本当に垢が溜まっているように観える。また、家業が衰え、大いに辛労がある時も、この泥色が現れる事がある。
以上の美色は、食禄の部位に散ったように広がって現れる。特に、鼻の穴の際辺りに強く現れる。この血色は紅潤の美色である。しかし、悦びが訪れる前は紅潤ではなく、潤いのみが現れる。そして、悦びが訪れた後に紅潤となる。
↑図25
以上の穢色とは、例えるならば汚れたように、燻(くすぶ)ったように観える色である。食禄の部位一面に現れる。この穢色が現れる時は諸事に滞りが多く、心が落ち着かない。
↑図26
以上の潤色は、左右の食禄に散ったように現れ、口に入るように観える。また、左に現れて口に入る事もあれば、右に現れて口に入る事もある。この血色は曇天平旦で、潤いがある。つまり、濁(にご)ったようでいて、自然と潤いがある。この血色は何れにしても、吉事を暗示する。
以上の黄潤は食禄の上、鼻の穴の際に、横に現れる。例えば、指の先で線を引いたように、または横に散ったように現れる。この血色が法令線の外に現れ出る時は、近日中に悦び事がある。何れにしても、吉事がある。
赤色とは言っても、赤色と暗色が相交わって現れる。よって、赤黒く観える。また、家督を失う前は、赤暗(しゃくあん)ではなく、暗色のみ現れる。失って後、赤暗となって濃く現れる。さらに、この血色は食禄の部位一面に現れるように観える。大体において悪色は、枯れ衰え、潤いがないように観える。ゆえに、この色が食禄の部位に現れる時は、己の「食禄」が枯れ衰えるに等しい。よって、家業・家督の衰えがある、と言う。しかし、食禄に悪色が現れていたとしても、右身・左身から美色が起こって小鼻を過ぎて現れ下る時は、みだりに判断してはならない。この場合、大抵の凶事は助けがあって、自然と免れる事が出来る。また、免れがたい凶事が来たとしても、その後に相応の吉事が来る。
以上の穢色とは、枯れたように淋しく、汚く曇ったような色である。これはすなわち、「曇天日昳(どんてんじってつ)終わりの暗色」である。非人の相は、例えるならば、己の天から食禄(≒食料、給料)を受ける場所である、食禄の官がことごとく枯れ衰えてその地位を失うに等しい。よって、食禄が乏しくなり、非人となるのである。だが、非人となって十四、十五日も経てば、以上の血色は自然と去り、何事もなかったかのように観える。これはつまり、非人と確定する時は、「非人なり」の食を得るようになるゆえ、血色が退くという道理である(→非人であることに順応してしまえば、血色は消えるという事)。だが、以上の血色が現れても、非人とならない場合は、必ず食を乞うほどの困窮がある。また、富貴の人にこの血色が現れた場合は、大難が来る。家督を失い、破産し、その後は自ら食を乞うほどの艱難(かんなん、≒困難)が来て、流浪するようになる。貴賤に関わらず、以上に準じて観なさい。非人の相とは言っても、特別な相ではない。己の行いの善、不善によって、誰にでも現出する相である。ゆえに、骨形(こっけい、≒骨格)には現れず、血色や意色(いしょく、≒心の色)として現れるのである。
↑図27
以上の収色とは、美色のように美しいものではない。ただ何となく、静かに収まっているように観える血色である。逆に、左の妻妾に収色があり、右の妻妾に美色がある場合は、夫の心は安定しているが、妻の心は不安定である、と観る。
*妻妾宮は男女逆に観るので、注意が必要である。前にも記したが、『南北相法』は男尊女卑の風潮を色濃く受けているため、男性の相を中心に記されている。基本的に左は陽、右は陰、という法則に従い、男の妻妾宮の左は正妻の事、右は愛人や恋人の事を観る(ただし、以上の文章では「左妻妾=夫(自分)」、「右妻妾=妻」として観ている。つまり、ここでの美色は「浮ついた心の色→浮気する血色」である事がわかる。)。女性は逆で観る。男女とも、左は同性、右は異性、と考えても良い。
以上の潤色とは、薄紅のように、華やかに観える色である。ただし、その色は、収まっていないように観える。
収色とは、前出の如く、静かで収まったような色である。これを「平旦にして潤」と言う。ゆえに、しばらく観ていると、大いに健やかに観える色である。
*妻妾の部位に「落ち着き」があるように観えるのである。よって、男女とも、独身者の妻妾宮は、「落ち着いた」感じが観えない。
この人は必ず妻と離縁し、その後すぐに新しい妻を得る事がある。また、陰で女とのもつれ合いなどがあった場合も、この血色が現れる事がある。
*前述したように、妻妾宮の「薄紅色の華やかな」潤色、落ち着きのない色は、「浮気の色=浮気の相」と観る。ちなみに、夫の眉(兄弟宮)に艶が出た場合、妻は浮気している。さらに、人中(鼻の下の溝の事で、「小人形法」では膣にあたる場所)に横線が出る場合も姦通(浮気)の相であり、女性特有の浮気の相である。
逆に、左の妻妾に青色がある場合は、夫が妻に、離縁を言い渡す。この青色は、妻妾に散ったように現れる。また、少し顴骨の方に散り広がって観える事もある。つまり、左の妻妾は陽であり夫を象徴し、右の妻妾は陰であり妻を象徴するのである。また、青色は肝気の色であり、怒りの色でもある。ゆえに、自分から怒り、「壊す」の道理である。以上の事は男女とも、これに準じて判断しなさい。
*女性の場合は、男性と逆を観る。
以上の青蒙とは、薄青い曇りがある色の事を指す。黄疸とは、肝木(かんもく)・脾土(ひど)が剋された結果、脾・肝の気がともに衰えて生ずる病である。ゆえに、この人は常に気が重く、少しの事でも思い悩み、心配する。これは、脾・肝の気が衰えた事が原因である。妻妾は眼の後ろに位置し、肝気が走る場所である(→肝と眼が五行関係にあるため)。また、土星の左右は脾土を司る(→鼻は顔の中心で、「土」は中心を司るため)。これはつまり、脾・肝の気が健全でない時は、必ず妻妾に青色が現れ、土星の左右に黄色が現れることを意味する。脾・肝の気がまさに絶えようとする時は、全身に青色・黄色が現れる(→いわば死斑、死相のひとつ)。以上の病がある人で、土星の左右に黄色が強く現れた時は、必ず病状が悪化している。
↑図28
以上の赤気は、顴骨の後ろから命門の方へ散ったように現れる。また、赤色が現れる事もある。
この美色は、女難がある人の血色と同じように現れる。特に、若年者で、色欲が強い者に多く現れる血色でもある。また、夫婦間での交合(=性交)がなければ、自然と腎気が動きやすく、以上のような血色が現れる事もある。その妻との関係が戻り、再び十四、十五日も交合すれば、以上の血色は自然と収まってくる。
逆に、命門の肉が衰えて淋しく観える者は、腎気が薄い。さらに、不養生(→原文は「不自愛」)であるならば、必ず短命である。この人の容貌が激しく観える時は、病まずして死ぬ。たとえ病んだとしても、長くはない(→つまり、突発的に死ぬ)。
また、常人においては、腎虚となる前兆の相でもある。この場合も、すぐに病気になるが、暗気が耳を巡れば、必ず死ぬ。他の相もよく観合わせなさい。
この人は余程の慎みがなければ、必ず短命に終わるか、気が狂って不慮の死を遂げる事がある。だが、どうなるかは予測し難い相である。慎めば、免れる事もある。
この女は必ず夫を差し置き(≒無視し)、万事において差し出る(≒でしゃばる、余計な事をする)。また、離婚を繰り返す。さらに、子供に縁が薄く、子供に恵まれない。この女は慎まなければ、老年期は大凶である。気が狂ったり、異常な死に方をする場合もあるが、どうなるかは予測し難い相である。
*五行において青は肝気の色であり、肝気は怒りに関係する。よって、この相がある女性は中年期にヒステリーを発症したり、淫蕩に狂う可能性が高い。とにかく、理性のコントロールが効かず、欲望の向くままに暴走しがちな相である。食欲、性欲、物欲、睡眠欲など、人一倍自制しようと努めなければ、必ずや破綻した人生となる。
すでに、頼りになる目下がいるか、または赤点が現れて後に、頼りになる目下を得る事もある。何れにしても、自分の味方になる者がいる、と観る。もし、その頼りになる者が衰える時は、赤点も自然と衰える。逆に、盛んになれば盛んになるにしたがって、潤いを生ずる。以上の赤点とは、ホクロのようなものであり、吹き出物とは限らない。
以上の青潤とは、青気(せいき)に少しの紅気(こうき)が相交じって現れるものである。ゆえに、潤いがある青色に観える。あるいは、薄紫色のように観える事もある。以上の血色が健やかに観える時は安産、衰えて観える時は難産である。また、血色が健やかなように観えても、少しでも悪色が交じって観える時は、難産となり、胎児は死ぬ。たとえ産まれたとしても、命の長短はこれに準じて判断しなさい。
*男女宮は、別名「涙堂」とも呼ぶが、妊婦の涙堂が薄紫色であれば、貴児を産むとも言われている。
もし、以上の血色が異常に健やかに観える時は、変じて難産となる。たとえ産まれたとしても、その子は短命である。また、人によっては、以上の青潤が濃く現れる事がある。これは多くの場合、「色白」の人に現れるものである。
*「産み分け」については様々な観方があるが、私が観てきた経験では、妻の後家相が強いと女子が生まれやすいようである(夫が剋されていればいるほど、女子が生まれやすい)。この場合は必ず夫婦の相を観比べるのだが、夫の相が女性的であったり、相に勢いがなかったり、運勢が下降傾向にあったり、体調が不安定で病気がちであったりする事に加え、妻が強い後家相を備えている場合は、必ず女子か不健康な子供が生まれる。逆に、妻に強い後家相つまりは男の相があったとしても、夫に妻を凌ぐほどの男相、威相があれば、男子が生まれやすい。「産み分け」については男女宮の血色を観る以外に、妊婦に背後から声をかけて左右どちらから振り向くかによって判別したり、人中の状態を観て判別する方法などがある。ちなみに、昔から「雷が鳴る夜に子作りするな」とか「大酒を飲んだ夜に子作りするな」という戒めがあるが、肉体面、精神面、ひいては運勢が不安定な時に性交して生まれた子供は、短命であったり、何らかの障害を抱えて生まれてくる可能性が高い。当然ながら、密通、不倫などによって生まれた子供も同様になる可能性がある。また、古人は若いうちに子供を産む事を奨励したものだが、これも経験則によるものであろう。実際、夫婦が高齢になればなるほど、障害児が生まれるリスクが高まる事は医学的にも証明されている。一般的に「障害児」というと、外面的・肉体的に何らかの特徴があるように考えがちであるが、実際は内面的・精神的に障害がある場合も多く、この場合は成人した後に悪事に手を染めたり、自殺したりしやすい。
↑図29
↑図30
以上の黒色があるのに離婚しない時は、必ずその妻は病気に罹(かか)っていたり、何れにしても女に関しての苦労が多い。前談の如く、眼尻から眼の内へ入る場所に現れる。例えば、焦げ付いたように現れる。眼を強く閉じた時は観え難く、眼を開く時は観え易い。
以上の赤点とは、例えるならば粟粒ほどの大きさの赤色である。赤点でもなく、吹き出物でもない。数多くある場合は考慮に入れない。ただ一つだけ現れているものを考慮に入れる。魚尾の際か、魚尾の上か下に現れる。
↑図31
以上の赤色の点とは、粟あるいは米粒を割いた断面ほどの大きさの、赤いものである。数が多くある場合は吹き出物である。ただ一つある場合だけを考慮に入れる。以上の赤色は奸門から髪の少し内側にかけて現れる。前談の如く、奸門は妻妾宮の後方にあり、陰の女を象徴する。さらに、赤色は災難を司る色である。ゆえに、陰の女についての災難がある、と観る。また、髪は己の血の余りであって、親類を象徴する。よって、赤色が髪にかかる時は、その災難が親類にも及ぶ、と観る。
↑図32
以上の赤気は、天中から起こって官禄の辺りまで散ったように現れ、下る。または前談の如く、嬰児の指で線を引いたような広さで現れたり、灯心がうねるように現れ、下る事がある。赤気の先が細くなっている時は、必ず近日中に大きな災難が起こる。
また、その当時は望む事は何一つ叶わない。以上の「衰えて淋しく」とは、暗蒙の気が相交わって現れる事を指す。この人は必ず家が亡ぶか、その地位を失うか、暮らしが行き詰まる。よく考えなさい。
以上の血色は、売春婦の類や、身持ち放埓(≒だらしない性格)で、女としての節操がない者など、天理(=自然の道理)に適(かな)わないような者には現れない。後家になった女か、未婚の女に現れる。
↑図33
以上の事は、多子の内の一子が死ぬ場合は考慮しない。独り子の場合のみに判断する。この道理については、後篇二ノ巻で追って説明する。
↑図34
以上の赤気は二様になって、散ったように昇る。または、何となく、薄く幽かに昇るように観える事もある。ただし、赤気ゆえ、何れも幽かに現れる。だが、人によっては少し濃く現れる事もある。もし、赤色のように濃く現れたならば、判断しない。よく考えて判断しなさい。また、以上の赤色が現れていて、同時に破産する血色があったり、生活が行き詰まる血色がある時は、その公難は大事となる。
この人は常に心気に喜悦(きえつ)を含んでいる。ゆえに、印堂に赤色を現わす。これは「魯愚(ろぐ、≒愚鈍)の相」である。ただし、赤色には二様がある。肝気が強くなり、心を疲弊させている時は、自然と心火が高ぶり、印堂に赤色を現わす。これは喜悦の色ではない。第一に、この人は「色白」ではない。また、印堂も広くない。
*愚鈍か否かは、まずは眼を観ればわかるのだが、印堂の広さや山根(さんこん、鼻の付け根あたり)の高さでもわかる。印堂は、自分の人差し指と中指を並べた広さが標準で、それより広いと愚鈍であり、女性では貞操観念に欠ける、と観る。また、山根が低いのは知恵が欠如した相であり、子供の相でもある。山根は知恵が付くにしたがって、成長とともに高くなっていくものだが、成人した後も低い場合は、愚鈍であると観る。ちなみに、女性の場合、印堂は小人形法では「股」、「陰部」にあたるゆえ、印堂が広い女性は容易に「股を開きやすい女=貞操観念に欠ける女、だらしない女」であると観る。まぁ、良く言えば寛大な相である。
*心(しん)と喜悦…五行では、心と喜悦は相関関係にあるとされる。よって、五臓六腑で言うところの心が害されれば喜びや笑いの感情に変化が出るし、逆に喜びや笑いが度を越せば心(≒精神)が害される事になる。例えば狂人で、常にニタニタしていたり、笑い方が異常だったりするのは、心が害されている証拠だと観る事も出来る。どんな相にも言える事だが、度を越した相、中庸を逸した相は、必ず何らかの精神的異常を内包しているという事を念頭に置いて、判断しなければならない。ダウン症の患者を例にとればわかるように、脳の状態は外面に如実に現れるものであるが、笑ったり、しゃべったりする時に現れる表情や態度、しぐさなどの中にも、脳の状態がハッキリと、「相」となって現れる事は明らかである。
この人は必ず心中に勢いを含んでいるため、自然と相者に「これから開運するだろう」と思わせる。以上の美色とは、元々は紅潤の気色である。つまり、これは君火(くんか)が健やかゆえに現れる血色である。よって、心中に悦びを含む色である。一般的に、心火(しんか)が健やかである時は、万事に滞りがなく、自然と運の巡りも良くなる。なお、この血色は陰徳を積む人に現れる血色と観間違える事があるため、二様に考えて観なさい。
以上の赤色の点とは、前談の如く、粟粒や罌粟粒(けしつぶ)ほどの大きさのものである。また、印堂の少し上に現れる事もあれば、下に現れる事もある。数多く現れている場合は考慮しない。一つだけ現れている場合のみを考慮に入れる。幽かで、観難い事もあるので、しっかりと観なさい。
《印堂から青気が起こり、辺地に走る時は、現状から逃れ、遠くへ行きたいと考えている》
だが、結局は遠くへ行く事は出来ない。以上の血色は、肝気が大いに衰え、自然と陰気になり、無常の気持ちが強くなった結果である。ゆえに、現状から逃れ、どこか遠くへ行きたいなどと思うのである。よって、肝気が治まる時は、以上の血色は忽(たちま)ちに退(しりぞ)く。また、この血色は変乱が激しく、観定め難い。もし、現状から逃れ、本気で遠くへ行こうと思う時は、以上の血色は印堂には現れず、陰面二十四穴である辺地・駅馬に現れる。他の相も観合わせて判断しなさい。
例えるならば、赤銅の如くに赤黒く、潤いがある。また、下唇の内側が紅(くれない)のようである。この人は「色白」ではなく、少し赤黒い面色である。もし、「色白」であれば、大凶である。
唇の色が悪くなる時は、万事に障害があって、成就し難い。老人は気血が衰えているため、唇の色は自然と悪い。これは老体の常色である。逆に、若者は気血が盛んなため、唇の色は自然と良い。この道理をもって、考えなさい。
以上の黒斑とは、例えるならば、米粒ほどの大きさで、黒青色で、唇に斑(まだら)に現れるものである。また、米粒をまいたように、染みついたように現れる事もある。以上の黒斑が薄くなるにしたがって、運も自然と良くなる。黒斑でなくとも、以上のような血色が現れる時は、同様に判断する。
また、ちょっとした事でも、大いに心配する。この人は必ず病気が原因で運気を下降させてしまう。例え病気にならなくても、気が重ければ、成る事も成らない。万事に滞りがあって、運に障害が出る。
↑図35
食あたりだと思われても、承漿に悪色が現れていなければ、食あたりではない。同様に、「薬違い」だと思われても、以上の如く承漿の色に変化がなければ、「薬違い」ではない。
↑図36
以上の暗気は、曇ったように観える。これを「日昳一の暗(じってついちのあん)」と言い、観え難い血色である。だが、二、三尺(約60~90cm)離れて観るならば、自然と観えてくる。また、暗色が現れる事もある。これは観易い。
↑図37
これを鉄面(てつめん)と言って、貴賤に関わらず現れる吉相である。第一に心気が強く、腎が厚い。もし貧相があったとしても、鉄面の人は、まず貧窮する事はない。また、孤独の相があったとしても、鉄面の人には必ず一人なりとも子供がいる。さらに、親族の中でも自然と貴(とうと)ばれ、頼りにされる。赤黒い中に潤いがある。泥面(でいめん)や穢面(えめん)においては、鉄面と混同しやすい面色がある。つまり、泥面、穢面にはわずかな潤いさえなく、汚れたように、垢(あか)の溜(た)まったように、燻(くすぶ)ったように観える。
以上の面色は、前談のように、汚れて、垢が溜まっているようで、下品でむさ苦しいように観える。一面に現れる。第一に、この血色はその当時に現れるものではなく、生まれつきの面色である。この人は生涯、住居が確定し難い。総じて観れば、「労して功なき相(≒何をしても報われない相)」である。だが、信心(しんじん、=神仏を信ずる心を持つ)し、陰徳を積む時は、必ず変化する。
前談の如く、汚れたように、燻ったように観える。窮厄とは、災難が来たり、家業が破滅したり、貧者においては食が尽きたりする事であるが、何れにしても大凶である。ただし、他の相を観合わせて判断しなさい。もし病人にこの相が現れていれば、極めて切迫した状況である。
この泥色が現れる時は、災難に遭った後か、家業・家督で大きな損失があった後である。以上の血色は、始めは穢色として起こり、後に泥色となったものである。また、運気が強い人は、穢色のみで終わる事もある。穢色、泥色はよく心得て観なさい。ただし、この血色は常にある面色ではなく、その当時の凶によって現れるものである。
たとえその家の主であっても、宗主にならぬ時は、必ず陽面の血色が悪い。陽面とは正面であり、世間を象徴する。陰面とは横面(=横顔)であり、陰(の事)を象徴する。ゆえに、小児であっても、宗主に成る時は表に立つ事になるゆえ、自然と正面の血色が良くなる。逆に、その家の主であっても宗主とならず、表に立たない人であれば、正面の血色は自然と悪い。貴賤に関わらず、以上に準ずる。
また、観始めた時は良く観えても、しばらく観た後に何となく「観冷め」する者は心気が弱く、根気が薄く、自然と大きく発展し難い。また、心気が強くとも不健康な者は、しばらく正面の血色を観ると、自然と白けて観える。だが、神(しん、≒神気)があり、心気が弱くても心中に悦びがある時は、面色は良く、観れども冷めず、という状態になる。逆に、神(≒神気)がない時は、心気が強い状態に似ているが、まるで城郭は堅牢であるが大将となる主君がいない城に等しい。
顔が青ざめたように観える。青気とは言っても、元来は蒙色である。だが、ここで青気と言うのは、そう言った方が観易いからである。肝気が強く、気が塞(ふさ)がっている人も、面色が青ざめたように観える。この事を心得て観なさい。男女ともに同じ観方をする。
以上の滞気とは、常に肝気が強い人がその肝気を抑え、内に留めている気が面部に現出したものである。滞気があると、自然と面色が重い。つまり、面色の容態(≒様子)によって、滞気か否かを観る。滞気とは、肝気を抑えるがゆえに気が内に鬱滞して、表に発せない状態である。よって、発狂(≒乱心)する事はない。
元来、人は血脈によって生ずるものである。ゆえに、貴賤に関わらず、面色が赤いのは人の常である。また、貴人は天の徳を得る人であり、白赤いのを吉とする。つまり、「天は水を生じて万物を養う」という事が天の徳である。一方、下賤な者は地の徳を得る者であり、赤く黄ばむのを吉とする。つまり、「地より万物を育て、天の徳に報いる」という事が道理であり、地の徳なのである。
↑図38
↑図39「ここを風当と言う。耳の穴の際にあり、イボの如きものなり。」
↑図40
薄紅のような色に潤いが出る時は、金銭その他の事において、万事安定しやすい。だが、紅がらを塗ったように赤色が強い場合は、必ず下相である。よって、これを吉としてはならない。胸が白い者は心気が弱く、短命である。女で胸が赤い者は、夫を剋し(=害し)、大いに悪女である。
↑図41
一 大陰(=太陰)の気色がある者は、その当時は他に物を施す事をしていない。ただ貪(むさぼ)る事だけで、他人の明徳(=優れた品性)を覆い、他人の微悪を顕(あらわ)す事を好む。その気は満月中夜(まんげつちゅうや)に位置する。
一 大陽(=太陽)の気色がある者は、その当時は意志が強く、諸事は順調である。だが、盛んな者は必ず衰えるのが通例である。よく考えなさい。その気は日の天上中正(ひのてんじょうちゅうせい)に位置する。
一 小陰(=少陰)の気色がある者は、その当時は他人が衰える事を好み、他人の心を乱して貪る事を願う。その気は日昳黄昏(じってつこうこん)に位置する。
一 小陽(=少陽)の気色がある者は、その当時は寛然(かんぜん、=ゆったりと落ち着いている様子)としていて、志念は広大である。また、己は無欲であり、正しく他人を導き、諸事をより良くしてくれる。その気は平旦現上(へいたんげんじょう)に位置する。